神田祭り 神輿 神田鍛冶三会町会神輿渡御
神田祭とは
「天下祭」として知られる神田祭は、元和年中までは船渡御であったと言われている。
延宝年中までは毎年斎行されていたが、山王祭(千代田区・日枝神社)と隔年で斎行することになり、
以後今日までに2年に一度斎行されることが恒例となった。
江戸幕府の庇護を受け、江戸城・内曲輪内へ、2基の神輿、36番45本前後の山車や附祭、
御雇祭などからなる祭礼行列が練りこみ、徳川将軍や御台所の上覧があったことなどから、
江戸の庶民たちからいつからか「天下祭」と称されるようになった。
また、江戸時代を通じて全国的に有名な祭のひとつとして
「日本三大祭り」「江戸三大祭り」の中に数えられたている。
神田明神の歴史
社伝によると、当社は天平2年(730)に出雲氏族で大己貴命の子孫・真神田臣(まかんだおみ)
により武蔵国豊島郡芝崎村―現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建されました。
その後、天慶の乱で活躍された平将門公を葬った墳墓(将門塚)周辺で天変地異が頻発し、
それが将門公の御神威として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊をお慰めして、
さらに延慶2年(1309)当社に奉祀いたしました。戦国時代になると、
太田道灌や北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く崇敬されました。
慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こると、当社では徳川家康公が合戦に臨む際、
戦勝のご祈祷を行ないました。すると、9月15日、神田祭の日に見事に勝利し天下統一を果たされました。
これ以降、徳川将軍家より縁起の良い祭礼として絶やすことなく執り行うよう命ぜられました。
江戸幕府が開かれると、当社は幕府の尊崇する神社となり、元和2年(1616)
に江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の地に遷座し、幕府により社殿が造営されました。
以後、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、幕府をはじめ江戸庶民にいたるまで篤い崇敬をお受けになられました。
明治時代に入り、社名を神田明神から神田神社に改称し、東京の守護神として
「准勅祭社」「東京府社」に定められました。
明治7年(1874)には、はじめて東京に皇居をお定めになられた明治天皇が
親しく御参拝になり御幣物を献じられました。
大正12年(1923)、未曾有の関東大震災により江戸時代後期を代表する社殿が焼失してしまいましたが、
氏子崇敬者をはじめ東京の人々により、はやくも復興が計画され、
昭和9年に当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート、総朱漆塗の社殿が再建されました。
昭和10年代後半より、日本は第二次世界大戦へと突入し東京は大空襲により一面焼け野原となってしまいました。
当社の境内も多くの建造物がほとんど烏有に帰しましたが、
耐火構造の社殿のみわずかな損傷のみで戦災を耐えぬきました。
戦後以降、結婚式場・明神会館など次々と境内の建造物が再建されていき、
昭和51年に檜木造の隨神門が再建されるに及び、江戸時代に負けない神社の姿を取り戻しました。
さらに「平成の御造替事業」が行なわれ、社殿の修復・塗替えや資料館の創建など境内整備が進められました。
平成17年、神札授与所・参拝者控え所・休憩所を兼ね備えた鳳凰殿、
氏子英霊をお祀りする祖霊社が建立されるなど、さらに境内整備が進められております。
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神輿バカ 鳥益3代目 榑林です
30歳後半にして神輿にハマり今では呼ばれたらどこにでも
行ってしまうぐらいになってしましました
神輿に関わっているいろんな方ともっと知り合いになり
学び、楽しみ、日本の伝統を伝える
そんな活動が少しづつ出来たらと思っています
お神輿を担がせて頂けたり、お神輿の事を教えて頂けたり、
その他なんでも構いません ご興味もって頂けたらご連絡下さい
榑林 info@torimasu.com
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